「DCの権力構造」は本当に変わったのか?『ブラック アダム』公開から4年、新体制ハリウッドで浮き彫りになった“破壊神”の功罪
ブラック アダムという劇薬がスクリーンに放たれてから、早いもので4年の歳月が流れた。「DCユニバースの権力構造が変わる」――主演のドウェイン・ジョンソンが世界中のメディアで繰り返したあの不敵な予告は、ある意味で残酷なほど正確に的中したと言える。ただし、彼自身が描いていたシナリオとは全く異なる結末を迎えることになったわけだが。巨額の製作費を投じた大作でありながら、スタジオ上層部の政治抗争とユニバース再編の荒波に呑み込まれた本作。いま2026年の視座から振り返ると、単なる興行的な成否を超えた、ハリウッドのスタジオシステム崩壊と再生の縮図がそこに見えてくる。
ジェームズ・ガンとピーター・サフランによる新生「DCU」が本格的な軌道に乗り始めた現在、映画ファンの間でブラック アダムの立ち位置をめぐる議論が再び熱を帯びている。劇場公開当時に巻き起こった賛否両論の嵐は去り、配信プラットフォームやSNS上では、アクション映画としての純粋なエネルギーやキャラクターの造形を冷静に再評価する動きが定着した。理屈抜きの圧倒的パワーで観客をねじ伏せようとしたあの試みは、迷走を極めていた当時のDCにとって何だったのか。その爪痕を丹念にたどってみたい。
ドウェイン・ジョンソンが捧げた15年の執念と「アンチヒーロー」への純化
企画の始動から劇場公開まで、およそ15年。並の俳優ならとっくに熱を失い、企画そのものがスタジオの書架で埃を被っていたはずだ。だがドウェイン・ジョンソンは諦めなかった。「善人ではないが、悪人でもない」。彼が演じたテス・アダムは、DCコミックスが誇るスーパーマンのような高潔なモラルを持たない。法を重んじることもなければ、敵に慈悲をかけることもしない。目の前の脅威を文字通り両断し、瓦礫の山を築き上げる。
ジョンソンが目指したのは、ハリウッドの優等生的なヒーロー像に対するアンチテーゼだった。妥協のない肉体改造、CGに頼り切らない重量感あふれるアクション、そして何よりも「神の力を持った独裁者」という危ういバランス。彼がこのキャラクターに託したのは、単なるコミック映画の1ピースではなく、自身がプロデュースを含めてスタジオの舵取りを担うという野心そのものだったのだ。
ヘンリー・カヴィルの電撃復帰劇と、一夜にして消え去った幻の未来
エンドロール後の数十秒間に、世界中の映画館が揺れた瞬間を覚えているだろうか。トレードマークの青いスーツと赤いマントを身にまとい、暗闇から姿を現したヘンリー・カヴィル演じるスーパーマン。あのカメオ出演は、ワーナー・ブラザース内部の激しい権力闘争の末にジョンソンが力づくで勝ち取った「クーデター」のようなものだったと、後に様々な業界誌が報じている。
しかし、その熱狂はあまりに短命だった。カヴィルがSNSで正式な復帰を宣言したわずか数週間後、ワーナー・ブラザース・ディスカバリーはジェームズ・ガンのスタジオトップ就任を発表。既存のタイムラインを白紙に戻す決定が下され、約束されたはずの「ブラックアダム対スーパーマン」の世紀の対決は幻と消えた。ハリウッドの無情さをこれほど生々しく見せつけた事件は、近年の映画ビジネスにおいて他に類を見ない。
興行収入3億9300万ドルの壁:スタジオが直面したシビアな収支計算
全世界興行収入はおよそ3億9300万ドル。この数字をどう捉えるかは、観る者の立場によって大きく分かれる。一般的なアクション映画であれば決して悪い数字ではない。しかし、2億ドル近くまで膨れ上がった製作費に加え、コロナ禍による追加撮影や莫大なマーケティング費用を考慮すると、黒字化のラインには届かなかったというのが大方の業界関係者の一致した見解だ。
中国市場での上映が見送られた痛手もさることながら、北米市場での観客動員が伸び悩んだ背景には、当時の「スーパーヒーロー疲れ」の兆候が影を落としていた。批評家筋からの冷淡なスコアと、一般観客の熱狂との間に生じた温度差。スタジオは数字の前に冷徹にならざるを得ず、結果としてジョンソンが主導する巨大なフランチャイズ構想はここで足踏みを強いられることになった。
JSAの躍動とCG美学:単体のアクション映画として残した爪痕
興行や政治的なゴシップを一度脇に置き、1本のエンターテインメントとして画面を直視してみると、本作が放つビジュアルの鋭利さには目を見張るものがある。特に、ピアース・ブロスナンが演じたドクター・フェイトの優雅な魔術描写と、オルディス・ホッジ率いるJSA(ジャスティス・ソサエティ・オブ・アメリカ)の戦闘シークエンスは、今見返しても極めてクオリティが高い。
スローモーションを多用したケント・ネルソンの幻惑的なバトルや、ホークマンの獰猛な翼による空中戦は、近年のマーベル作品に見られる量産型のCGアクションとは明らかに一線を画していた。物語の深みよりも瞬発的なカタルシスを追求した演出スタイルは、好みが分かれるところだが、「映画館で巨大なスクリーンと爆音を楽しむ」という原体験に特化していたことは疑いようのない事実だ。
日本のストリーミングで続くロングランと「疲れない映画」としての受容
興味深いのは、日本国内における息の長い人気だ。U-NEXTやNetflixなどの配信プラットフォームにおいて、本作は今なおアクション映画ランキングの上位に時折顔を出す。複雑に入り組んだマルチバースの設定や、何十本もの過去作を履修していなければ理解できない近年のアメコミ映画に対し、本作の構造は痛快なまでにシンプルだ。「目覚めた超人が、悪い奴らを全員叩きのめす」。この明快さが、日本の視聴者に心地よい刺激として受け入れられている。
仕事帰りの深夜、あるいは休日の午後に、頭を空っぽにして圧倒的な破壊劇に浸る。日本のポップカルチャーファンが好む「無敵のダークヒーロー」という文脈において、テス・アダムの孤高の佇まいは、制作側の意図を超えて独自の居場所を見つけ出したと言えるだろう。
2026年の視点から:あの「破壊」がDCの完全リブートに不可欠だった理由
歴史に「もしも」はないが、もし本作が大成功を収めていたらどうなっていただろうか。おそらく旧体制の残滓を引きずったまま、場当たり的なクロスオーバーが繰り返され、現在のジェームズ・ガンによる抜本的な改革は成し遂げられなかったはずだ。皮肉なことに、ドウェイン・ジョンソンが力づくで突き崩そうとした古い壁が崩壊したことで、スタジオは過去の遺産をすべて清算し、ゼロから再構築する覚悟を決めることができた。
「破壊なくして創造なし」。皮肉にもそれは、テス・アダム自身が劇中で体現していた哲学そのものではないか。スクリーンの中だけでなく、現実のハリウッドの構造そのものを強引に揺さぶり、次なる時代への扉をこじ開けた。その功罪を噛みしめるとき、この黒いスーツの男が残した傷跡は、今もなお鈍い輝きを放ち続けている。 (出典: ブラック アダム(Yahoo!ニュース))